Digest Movie
Exhibits
NB-606
おおしまたくろう
制作協力:MTRL KYOTO
2018
本作は京都のFab施設・MTRL KYOTOのレジデンスプログラムの中で制作されました。作品のきっかけとなったのは、勤務先の大学で学生から「グルーヴをモチーフにした作品を作りたい」と相談されたことがあります。
音楽に高揚感をもたらすとされるグルーヴは、個人によって感じるポイントや解釈が異なるため、定義が曖昧な言葉です。グルーヴをモチーフに楽曲を作るためには、まず「グルーヴとは何か?」と問う必要があると考えました。そこで私は、自分が身近にグルーヴを感じる現象を作品として提示することにしました。
私がグルーヴを感じる現象、それは「車のウィンカーの点滅のズレ」です。車のウィンカーの点滅のタイミングは、ウィンカーの機種や電球の個体差によって微妙に異なります。つまり厳密な意味において、一つとして同じタイミングで点滅するウィンカーはないのです。
例えば、交差点で右折を待つ車の列を見ていると、最初はバラバラに点滅していたウィンカーのタイミングが徐々にズレていき、一斉に点滅する瞬間が訪れます。この瞬間に私は高揚感を覚えるのです。それぞれのウィンカーは反復的に点滅しているだけなのに、それらが並べられると私たち人間は関係性を見出し、無限にも思える複雑なリズムと一瞬の高揚感に出会うのです。これが私の思うグルーヴ感でした。
私の提示するグルーヴ感が必ずしも正しいとは限りませんが、それでも一旦音楽のフィールドから距離を置き、日常生活の中でグルーヴを感じる現象をみんなで探せば、その表現の総体が「グルーヴとは何か?」の答えになるのではないでしょうか。
私は車のウィンカーの点滅のズレにグルーヴを感じます。あなたはどんなものにグルーヴを感じますか?
ブタニコバーン
Jīn zhū
おおしまたくろう
企画・撮影協力:杉山雄哉
2016~2018
古来より音楽は神への祈りとされてきた。
ではもし音楽が祈りであるなら、届かない祈りもあるのではないか?
そんな思いからブタニコバーンは開発された。
古代中国で占いの楽器として使用されたブタニコバーンは、豚の鼻を撫でながら硬貨を入れて、豚が鳴けば幸運が訪れるとされる。しかし、豚が鳴かなかった場合は…。
音が持つ神秘性とお金が持つ現実性を合わせた体験により、現代の予定調和な音楽に問題提起する。
本展ではブタニコバーンの他に、コンセプトが書かれた小冊子(Zine)と本作の制作プロセスを記録した映像が展示された。作品鑑賞にはコインを貯金箱に入れるインタラクションがあり、展示では来場者に硬貨を入れていただいた。
本作ブタニコバーンの制作プロセスを説明する。本作は映像作家・杉山雄哉の企画の一環として制作された。当時の杉山はアーティストが作品を完成させるまでの過程を記録し参照可能なアーカイヴとして保存することをテーマに活動しており、「ある条件のもとで1日のうちに1作品を制作せよ」という企画を考案し、アーティストが作品を生み出すまでのプロセスを記録した。この杉山の企画の1人目としておおしまたくろうが選ばれた。
制作は2016年1月21日に岐阜県の情報科学芸術大学院大学(IAMAS)で行われた。杉山はおおしまの楽器を単なる音楽のための道具でなく、楽器自体がある種のキャラクター性を持つ「顔を持ったアニマ楽器」であると考え、おおしまに以下のような条件を与えた。
・顔(キャラクター)を持った楽器であること
・みんなで演奏できる楽器であること
・資金1000円 etc.
これらの条件を踏まえてアイデアスケッチ、プロトタイピング、材料の買い出し、組み立てといった作業を経て本作は完成した。本作を制作する上で、Nicolas Collinsの本『Handmade Electronic Music』で紹介されていたJohn Bowersの痙攣するスピーカーこと「The Victorian Synthesizer」の構造と、Anthony Dan &
Fiona Rabyの本『スペキュラティブ・デザイン』からお金をインタラクションのトリガーとして利用する考えを取り入れた。
音楽の祈りという抽象度の高いテーマをお金をトリガーとして扱うことで、俗世的な世界観へ戻すことができた。またお金の投入をセンシングして乱数で判断するのではなく、完全にアナログな回路で判断される発音の有無は、まさに結果を神のみぞ知る作品になったと考える。
参考文献
ニコラス・コリンズ(2013)『Handmade Electronic Musicー手作り電子回路から生まれる音と音楽』久保田晃弘監訳、船田巧訳、オライリージャパン
アンソニー・ダン、フィオナ・レイビー(2015)『スペキュラティブ・デザイン 問題解決から、問題提起へ。—未来を思索するためにデザインができること』久保田晃弘監修、千葉敏生訳、牛込陽介寄稿、ビー・エヌ・エヌ出版
スモウルス
Sumorse
おおしまたくろう
2016
本作スモウルスはモールス信号の早打ち競争という文化にインスパイアされて制作された音具である。制作当時はヘイトや炎上などのインターネットで生じる諸問題に関心があり、インターネットの構造自体を市民の手で使いやすい形にハックすることをテーマに活動していた。
インターネットのあり得たかもしれない別の現在を考察する上で、メディア考古学と呼ばれる手法を用いた。メディア考古学とはエルキ・フータモが提唱する学問体系で、メディアの歴史を当時の資料を集めながら調べることで、メディアの形が現代に至るまで直線的に発展したのでなく、様々な可能性があり得たことを明らかにする。「ヴィクトリア朝時代のインターネット」ではメディア考古学的な発想でインターネットのような電子通信技術の祖先としてのモールス電信を取り上げおり、現代のインターネット環境に生じている諸問題はモールス電信の時代にも同様な問題として発生していたことを明らかにする。私はモールス電信というメディアをモチーフに制作することで、インターネットを再構築できないかと考え、2016年3月の1ヶ月の間、モールス電信をモチーフとした作品を毎日1つ制作する活動を行った。スモウルスはその期間に制作した作品のひとつである。
モールス電信が使われていた時代には、メッセージの内容をモールス符号に変換したり、モールス符号からメッセージを復元する電信士と呼ばれる職業があった。モールス電信というメディアを調べていく中で、彼ら電信士同士の喧嘩としてモールス信号の早打ち競争という文化があることを知った。この「モールス電信で戦う」という発想からトントン相撲でモールス信号を放ち戦うアイデアを思いつき、スモウルスを制作した。
スモウルスはダンボールで作られた箱型の土俵と力士の人形を使って遊ぶ、音の鳴るトントン相撲のような音具である。土俵の四隅に銅箔テープが巻かれたスイッチがあり、スイッチを押せば土俵下に隠された電子回路が通電し音が鳴る。音高は土俵下の光センサーによって変化するため、スイッチが押されて土俵が傾くたびに音が複雑に変化する。また音の回路にはインベーダーゲームで使われているチップと同じものを使用し、ゲーム機らしいチープな電子音が鳴る。
完成した作品を振り返ると、当初構想していたようなモールス電信をメディア考古学的なアプローチで制作に取り込み、インターネットの構造を再考する作品には至っていないように思う。しかし一方で、「戦いのエネルギーを音に変換する」というスモウルスにどこか可能性を感じてもいる。現状に対する負の感情のエネルギーを物理的なエネルギーに変換させてユーモラスに提示することで、意外な視点に気づかせる。そうした意外な視点から発せられるユーモアは、安易な解決策では解決不能なほどに複雑に絡み合った現代社会の諸問題を解きほぐすマッサージでありメッセージとなるだろう。
参考文献
スターン、ジョナサン(2015)『聞こえくる過去─音響再生産の文化的起源』中川克志・金子智太郎・谷口文和訳、インスクリプト社
スタンテージ、トム(2011)『ヴィクトリア朝時代のインターネット』服部桂訳、NTT出版
フータモ、エルキ(2015)『メディア考古学:過去・現在・未来の対話のために』太田純貴訳、NTT出版
事の始まり
The Way MYTHings Go
おおしまたくろう
2018
事の始まりは、ウルトラマンだった。4才のころに見せられたウルトラマンティガの放送に熱狂した。平成のウルトラマン3部作は僕の神話であり、特にV6の長野博が演じるティガの主人公「ダイゴ隊員」は理想の人間像となった。
事の始まりは、Lチカだった。LチカとはLEDがチカチカと点滅する様子を表した言葉で、電子工作では作例としてはじめにLチカから学習することが多い。Lチカとは、電子工作における通過儀礼とも呼べるのだ。
僕もLチカを通過して電子工作の技術を身につけ作品を制作してきた。僕はダイゴ隊員のような人間になれているだろうか。
Lチカという言葉にはじめて出会ったのはArduinoの勉強をしていた時だと思う。電子工作やフィジカルコンピューティングを学ぶ際にLチカは通過点にすぎず、その向こうにある高度な技術の習得が目標となる。しかし、Lチカという技術自体が秩序を感じさせる美しさを持つことから、Lチカが表現になり得ないかと模索した。
Lチカという技術と合わせるモチーフを構想するにあたって、最初は町に潜むLチカとして工事現場のコーンや踏切、自販機などの点滅を考えたが、最終的には作者自身にとって原体験となるウルトラマンと合わせることにした。Lチカという電子工作における原体験と重なった時に、どのような気づきが得られるか期待したからだ。
展示を終えて、未だに原体験の重なりから新たな気づきには至っていないが、Lチカを巡る新しい気づきを得ることができた。かつてはプログラミングの学習においてディスプレイに「Hello World!」というメッセージを表示にさせることが最初の作例であったが、フィジカルコンピューティングが台頭した現代ではHello
World!に代わってLチカからプログラミングの世界に入ってくる者も多い。このことからプログラミング学習において、Hello World!を原体験とする世代とLチカを原体験とする世代に分けられると考えれば、Lチカ世代に特有の表現があり得るのではないか。今後はLチカの表現を考える上において、こうした世代の差を意識していきたい。
『ある言葉』の選集
Anthology of Stumbles
おおしまたくろう
2018
日頃からケータイにある言葉を書き溜めている。
ある言葉は突然降りて来る。
目の前の光景や会話がトリガーになっているのかもしれないが、
とにかく降りて来るのだ。
ある言葉は、1ヶ月ごとに選集としてA4サイズ1枚にまとめており、それを更に2018年の1月〜8月分を1冊にまとめた。私のしたことは、降りて来るある言葉を拾って並べ直した。ただそれだけ。
PLAY A DAY ZINE
おおしまたくろう
にわあやの
2016~2018
2015年から半年に1冊のペースで発行しているZine(個人広報誌)。自分の作品の解説や活動スケジュールなどを記載している。
これまでパフォーマンスを中心に活動することが多かったが、ライブハウスではパフォーマンス後に観客とディスカッションする時間を確保することが難しく、自分の自作楽器のコンセプトを十分に伝えられないまま悔しい思いをすることが多かった。そこで会場の入り口でZineを配ってもらい、ライブ中や帰宅途中に読んでコンセプトを理解できるようにした。
Accumulated Memory
Yüiho Umeoka
撮影協力:宮崎渉大
2018
蓄積される記憶はこの街の風景
時間をかけて作られた風景は刻一刻と変化していく
変わらないものは無い
やがて風景はあなたの記憶となる
Accumulated Memoryは展示会場の上を走る電車の音をトリガーに映像を変化させるインタラクティブヴィデオアート作品である。
壁面に映し出された映像素材は兵庫県神戸市の元町駅周辺から1kmほど続く元町高架下商店街(通称モトコー)の7つに別れた通りを1番街から7番街まで撮影をしたものである。それらの映像素材をプログラミングソフトウェアを用いて1フレームずつ増殖していくイメージと横縦の列状に均等に並べられていくイメージの二つのパターンをランダムで描画している。
描画されたイメージは会場であるギャラリーの上を走るJRの電車が通過する際に天井に設置されたピエゾマイク(振動検出マイク)と連動して映像がリセットされる。1分後に再度ランダムな描画を再開する。
この作品では老朽化の進む元町高架下商店街と都市の記憶をモチーフに制作している。
私じゃない〜ホムンクルスとして〜
not i ~as a homunculus~
心底暗夫
2018
この作品はサミュエ・ベケットの戯曲「私じゃない」を基にしたインスタレーション作品である。
「私じゃない」はベケットが1972年初演でキャリアの後期に位置する作品で登場人物は口と聞き手のみである。口が支離滅裂なことを話し続け、時たま聞き手は憐れむ動作をするのみだ。
ベケットの「私じゃない」は映像で上演することを念頭において制作させた。舞台上で口のみが存在することは難しい。
私がこの戯曲をモチーフとして選定したのは「私じゃない」状況はどのように成立するかという問題意識からである。「〇〇は私じゃない」とい文は普通に存在する。昨日、大統領と食事していたのは私じゃない。私はフランス人ではない。等。
もっとラディカルな否定がそこに潜んでいるように感じた。
私は私じゃない。
これはなかなかにありえない。そして、その否定は僕にとってかなり魅力的だ。私じゃない私は私なのか。自分をつねると痛いと感じるし、つねってる感覚もある。確かにここにいる私を無効化する為の試験として私は「私じゃない〜ホムンクルスとして〜」を制作した。
そして、もう一つのモチーフとして「ホムンクルス」がある。脳内の小人、体性感覚。脳内にあるもう一つの身体。よく使う部位、重要とされる部位は脳内では大きく配分されている。背中など活発に意識されない部位は小さく区分される。脳内の小人は目、手、性器が肥大している。その像は一目見て異形である。が、確かに私たちの脳内に住み着いている。いや、脳内の小人が私たちの身体であるとも言えないことはないだろうか。物理的に存在する身体と架空の身体は車輪の両輪。
脳内の小人がそのまま現実の世界に現れて、対峙したとき私は私だと認識できるだろうか。
私じゃない、ホムンクルス。を糸口にこの作品は制作された。
まず、口だけの存在のホムンクルスを考えた。口だけだから脳はない。だが、脳内の小人は存在するとして。口が自立するホムンクルスをオブジェ。足と手があり、神経に口がぶら下がる像。
一人称がなくなった世界には二人称も三人称も存在しないはずである。ならば、口はどこに向けて何を話すのか。私は空に向かって、話す為に話し続けるだろう。話す内容はなんでもいい。誰も聞いてなくても語りづつけるだろう。
私はこの作品を通じて、何かを伝えようとはしていない。私はこの作品で自分自身に問いを設問したイメージである。この作品を紐解いた先に何かあるような気がして作品に向かい合った。
幽霊の思い出の様なものを作って行きたいと今は思っています。
Performance
LivePerformanceEvent
「Improvising city」
2018 9.16 9.23 13:00〜18:00
Improvising city 9.16 Part1
Sound: おおしまたくろう
Performance: 心底暗夫
Video: Yüiho Umeoka
Improvising city 9.16 Part2
Sound: おおしまたくろう
Performance: 心底暗夫
Video: Yüiho Umeoka
Guest: 小池照夫
Improvising city 9.16 Part3
Sound: おおしまたくろう
Performance: 心底暗夫
Video: Yüiho Umeoka
Improvising city 9.23 Part1
Sound: おおしまたくろう
Performance: 心底暗夫
Video: Yüiho Umeoka
Improvising city 9.23 Part2
Sound: おおしまたくろう
Performance: 心底暗夫
Video: Yüiho Umeoka
Improvising city 9.23 Part3
Sound: おおしまたくろう
Performance: 心底暗夫
Video: Yüiho Umeoka